西日本豪雨について、真備町から
- naomitajiri
- 2019年7月7日
- 読了時間: 5分

一年が経ちました。
こういった記事を書くべきか否か、ここ一か月ほどずっと悩んでいました。
ただ、真備でこのお店を開いた以上、そして真備でやっていこうと思うきっかけになった出来事である以上、当時のことを振り返って書こう、と思いました。
(それにほとんどだれの目にも触れないサイトなので苦笑)
私が地元である倉敷市真備町で店を開くと決めたのは西日本豪雨が起こった後です。
当時私は倉敷市内で勤務鍼灸師、柔整師として働いていました。
2018年7月6日深夜、突然の爆音が鳴り響きました。
雷が落ちたのか、どこかの池が決壊したのか。家の裏手の山が土砂崩れを起こしたのか。
何が起きたのかわかりませんでした。
ただ、階下に住む祖母や別棟に住む両親のことが心配で、私は私の部屋を飛び出したました。(当時の記憶はところどころ不明瞭で、それでいて怖いくらいに鮮明なところもあります。文章の時間間隔がおかしいところもあります。)
私は家族の無事を確認した後、情報を集めようと思いました。けれど、そこでおかしなことに気が付きました。自宅で契約しているインターネット回線が使い物にならなかったのです。どういうことだろう?大雨だからだろうか?どこか、鉄塔に雷でも落ちたのかもしれない……とても不安になりました。テレビをつけても、ネット回線とこみになっているテレビはもちろんつきません。ラジオをつけても、情報はありません。私はあわてて古い型の、念のためにと置いていたポケットWi-Fiを試しました。どういう理由かわかりませんが、私の部屋の一番端っこでだけで使用が可能でした。それでも脆弱な電波では、ツイッターの文字だけが見える状態でした。写真など、重い容量のものはだめでした。
私は #倉敷市真備町 や #真備爆発 で検索しました。その時はまだ川が決壊したこと(しかけていた?)ことを知りませんでした。爆発が工場の水素爆弾のようなものだということも。
たったひとつ山を超えたさきで川の水がどうなっていたのかさえ、知りませんでした。
検索にひっかかる文章に首をかしげました。
救助を求める声が次から次へと溢れていきます。
何が起きたのか、そのときになって私はようやく理解しました。
夜明けごろ、私は家を飛び出しました。山を越えて、救助要請のあった住所の方へ車を走らせました。
あの時のことは今でもなんと表現したらいいのかわかりません。
多くの方が報道で目にしたあの光景が目の前に広がっていました。
私はボートをもっていません。何か助けになるようなものは何もないのです。外からの情報はほとんどありません。Wi-Fiが使えるのも自宅の一角だけ。電話も使えない。助けを呼ぶにも街を出る道がわからない。どこが通れて、どこが無事で、何が起きて、誰がどこにいるのかも。真備以外はどうなっているのか、川の決壊なら倉敷の中心地は?他の地区は?友達は?患者さんたちは?外の、無事なところがあるのなら、そこの人達はこの状況を知っているのか?市は?国は?自衛隊は?警察は?誰が助けてくれるのか。
あの時の無力感は一生忘れません。
民家や店や、およそ人の営みがある町内でのおよそ80パーセント近くがなんらかの被害を受けた中で、私の地区は土地の高さのために被害をうけませんでした。
水はありません。食料も。通れる道もなく、情報はほとんどない。
それでも、私の家族も家も田畑も無事だったのです。
それから、正直に言うと記憶が曖昧です。
とにかく何かをしなければ、と必死でした。真備町民なのに無事だった、何の被害もなかった。責められることではないのに、何かをしなけれいけない、とそればかり考えていました。
当時真備をでるために使用できる道は一本だけ。常時なら30分で済む道を2時間かけて出勤し、倉敷の友達にお風呂を借りて深夜に帰宅。休日は片付けの手伝い、避難所でのアムダでの鍼灸師としての施術。そんな感じで2・3か月を過ごしたと思います。
私は暑いところが苦手です。若干の潔癖症でもあります。それでも、あの頃はそんなこと頭にも浮かびませんでした。とにかく動き回って、動き回って、そんな風に過ごしていました。
うまく言葉にできないけれど、いろいろなことを考えました。周囲からいろいろなことを言われもしました。その中で、私はこの真備町で、店をやっていこうと決めました。私は世界中を放浪するのが好きで定住が苦手です。だから、一生開業なんてせずのらりくらりと生きていくのだと思っていました。
ただ、私の仕事が、あえて真備で開業をすることが少しでも誰かの役にたつのなら、と思いました。ありがたいことに開業してから約半年、のんびりとではありますが様々な地域から患者さんが来てくださいます。はじめて真備にきた、という方も多いです。こうやって真備にきていただくこと、真備をしってもらうことができることをとても嬉しく思っています。
これから、真備にどれだけの人が戻ってくるのか、町民のみなさんがどういった選択をするのか。
それぞれの事情は異なるでしょう。わかりやすく、金銭の問題や土地の登記の問題など、さまざまな事由において、望む通りにはいかないこともあるかと思います。
そして、この災害大国で生きる以上、他人事ではなく、不安はいつだってあります。
私はあの日と同じようにずっと無力ではありますが、精いっぱい真備で頑張っていこうと思います。
もしも最後まで読んでくださった方がいましたら、ありがとうございました。
少しでも真備に興味を持っていただけたら嬉しいです。そして、当時たくさんの方の優しさ
に触れました。それは支援だったり、声援だったり、さまざまなものでした。
本当に、ありがとうございました。
2019・7・7 北川屋鍼灸整骨院院長 田尻 尚美 (@真備町住人)
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